昭和52年08月01日 朝の御理解



 御理解 第81節
 「氏子、十里の坂を九里半登っても、安心してはならぬぞ。十里を登り切って向こうへおりたら、それで安心じゃ。気を緩めると、すぐに後へもどるぞ。」

 十里の坂を登りきっただけではまだ安心は出来ん。向こうへ降りて初めて安心という。信心の道は愈々険しくて厳しいという感じですけれども、険しくて厳しいと言うておる間は、本当のことじゃないと思う。信心が限りないおかげ、限りないご神徳に繋がって行くことで御座いますので、これだけおかげを受けたから、もう安心と言うことはありません。向こうへ降りたら安心だ。向こうへ降りる向こうへ降りたと言うことどう言うことだろうか。安心と言うことはどこまで行った時が安心だろうかとまあ思います。
 昨夜はお礼信話会が御座いまして、もう皆さん七月一杯それこそあふれる様な、ご修行で、皆さんが一生懸命体験を受けられたお話があっておりました。最後に久冨繁雄さんが発表しておられますのに。本当にいつも思うことだけれども、一つのことを貫くと言うことは見易いことではない、本当に難しいことだと言う様なことを言っとられます。31日間それこそ今年こそは、一日も欠かさずにおかげを頂くぞと思うておりましたけれども。その31日の中に1日だけ身体が悪くて御無礼をしたと。
 だから貫くと言うことは、まあ大変難しいことだと。神様のおかげを頂かなければ出来ることではないと言うことで御座います。そうですね。私が我力でどうでもこの31日間をどうでも通らせて貰おうと。そう自分が決めただけでは出来ないと言うことです。信心がね私はもう我力でするという信心から、愈々神様がさせて下さるんだなと言うことを、神様のおかげを頂かなければ出来ないんだなと言うことが分った時に、初めて私は「向こうへ降りたら安心じゃ」と言うことそう言うことではなかろうかとね。
 神様のお許しを頂かなければ出来ることではない、どうでもこのひと月だけは頑張るぞという、その頑張りだけにいうなら掛けておったでは、人間生身を持っておりますから、何時どういうことが起きらんとも、又どういう突発的な用事が出来ないとも限らんのです。そこを私は神様のおかげを受けて、神様のおかげを受けなければ出来ないだと言うことを、真から分からせて頂く時に、我でする信心から、まあ言うなら有難いの一念でさせて貰う、今日もお許しを頂いて御修行が出来た。
 今日もお許しを頂いてお参りが出来た。と言うことになって来なければ、本当なことではないと思います。これはまあ私自身のことですけれども、本当に神様に許されて、おかげを頂いておるなという思いが、もういつの場合でも、ただ私が正信心を貫くという、我でやっておるというわけではなくて、成程神様のおかげを頂かなければ出来ることではない。言うならば神様が、こちらの正祈念を貫かせて下さるために、もう付きっ切りについておって下さる。
 例えば朝の目覚ましのおかげを頂くというてもです、ほんとに神様が起こして下さるなと思う様なおかげを実感致します。ですから神様のおかげを頂かなければ出来ることではないなと言うことです。そこでそのまあけれども初めから、それを実感できたりそれが分かるということはありません。それこそ向こうへ降りたら安心だと言った様な、気持ちが始めから開けるとは思われませんけれども。
 それはどうでも矢張り正祈念を貫こうとしてもらおうと言った様な、まあ我力であっても、神様に喜んで頂く事柄にひとつの我力をいうなら燃やすわけですから。そこを矢張り一遍通り抜かせて頂くためにです、昨日ここにいつもお広前にこうお円を書いてお話しをしたりして、西岡さんが司会したりしておかげを頂きましたが。左側の方からずらぁとこう、四十四名のもとに発表しております。
 それから最後にこちら左側の方、左側の方には昨日から、夏季心行から引き続いてきょうの月例祭までという風に泊りがけで、おいでられておる宮崎の方達の発表がございましたが、どの方のはなしを聞かせて頂いても、憧念心に燃えておられるということです。言うならば、惚れて通えば千里も一里という、そういう思いがどの方にも、発表の中にでもあるということ。
 昨日私改めて、宮崎当り遠方からお参りする方達がおかげを受けるという、なんかそういう秘めじょのようなものが隠されて居るという様なものを感じました。はぁ信心はこれだな。ということです。んなら二丈の方の人達は憧念心がなかったというと。初めはやはり合楽へ合楽へと言う憧念心を燃やしたひと達ばっかりなんです、もう親先生親先生という念を燃やした方達ばっかりなのですけれども。
 そこが人間ですし生身ですし、言うならば、我力でする事ですからいつのまにかしぼむ。いわば迫力がなくなって来る。そしていうならば毎日こうやって顔を突き合わせて、信心の稽古をさして頂いておるのですから、まぁ先生の顔にも見飽きて来る事にもなって来るのじゃないですかね。宮崎の方達の場合なんか、もうお広前へ入って親先生の前に座っておられたら感動すると言っとられます。
 月に2回か多い時に3回。まあ月に1回ちゅのがどうかしてどうかしてというので、2回になりどうでも自分を連れて参ってくれと言う人があると、そんなら私も一緒にと言うてお参りするから、2回が3回にもなると言った様な。もうそれがねそのまあ有り難うして有り難うしてということに繋がっておる訳です。だからそういう憧念心というそのものが、ならいつまでも続かないという性質のものですから、それを愈々本当なものにしていく事のために、日に日にさらな信心というのが願われるのです。
 心が日に日に瑞々しいまでに、新らな物でなからなければならないということです。81節ということは、八という字は広がるに広がるとういう意味の時に頂きますね。漢字の八と言う字は広がるに広がるという繁盛を意味するのです。十という字はプラスですね、その広がるに広がっていく字に又プラスということなんです。一というのはね、いつもが初心だということ、いつも一から始まるということなんです。
 だから私しが八十一節というこの御理解はこれを本当に自分のものにさせて頂いて、言うなら向こうへ下りたら安心じゃというところまで信心が進められたら、もういよいよ、広がりに広がっていく、限りないおかげに繋がる。言うならば、お徳を受けるということだと思うのです。今日の皆さんの体験発表の中に、最後にここの修行生の方が発表しておりました。ひと月間まあ一生懸命やってきた。
 けれども振り返ってみると、あそこも足りなかったここも、足りなかったということばかりであった。だから私の夏期信行は、明日からだと言う意味の事を言っておりました。ね。これなんです。とにかく皆さんが「終ったはあ、やれやれ安心」と言う所ではないでしょうか。それは丁度頂上を極めた所がそれじゃないでしょうか。まあ年の内冬と夏の修行、これだけにゃどんな事あっても、いっちょおかげ頂かにゃと言う様な方達が、合楽には大変多いのです。
 ですからそこまでは合楽の御信者さんである限り、みんな言うならば、1日や2日ご無礼したとか又は、出来なかった事情があると言うても、ま大体できたことであります。ひと月間の修行を終らせて頂いたという、ね。おかげを頂くというか、お徳を受けるというのはそれから先です。言うならばそのおかげを頂いた始まりに、もうひとつプラスして言うならまた、「私の修行は明日からだ」というそれなんです。
 そこに私は神様の心が動くと。「やれやれ、安心」じゃなくて、愈々向こうへ下りたらと言う所を狙っておる。ただおけがを受ければよいというのではない、本当に限りないおかげに繋がる、お徳を受けて行くためには、と常日ごろ工夫に工夫を練りに練って、おらなければそういう心がつかない、言うならば人が人偏なら、私は行人偏という、ちょっとした考え方がね、言うならば行人偏になるわけです。そういう信心から、私は新らな物が生まれて来ると思うのです。
 そうして後で段々分からせて頂く事はです、そういう信心のその先にあるのは結局許されてした自分の我力ではない、神様のおかげを頂いて、許されて修行が出来た、許されてお参りが出来たということに気付かせて貰う。そこから本当にするのではない、させて頂くというはっきりした。言うならば信心が生まれて来ると思うのです。先ず初めの間は一念を貫こうという。まあそれは我力ではありましても、神様が喜んで下さる事のために、言うならば頑張ろうとこう言う訳なのです。
 そしてその頑張りを利かせるわけですけれど、頑張りを利かせておる内にです。それこそ久富さんじゃないけれども。ね。ことにだけは、どんなことがあっても貫くぞというのでしたけれども。結局神様のお許しを頂かなければ、たった1日で終わったけれども、それを貫くことが出来なかった。貫くということは、矢張り見易いことではないという事であります。
 教祖様のお言葉の中に、「今中」という言葉があります。どんなにおかげを受けても、今が真中だというのです。この精神ですね信心は。おかげでちょっとおかげを頂いた。やれやれ安心と言うのではなくてですね。これからが本当のおかげが頂けるれんだというのです。81節にはそういう意味が込められている。なるほどお願いはした、御祈念は成就した。おかげを頂いて有り難いとまぁ言うなら、やれやれというても普通でいうならよい所なんですけれども。
 どんなにおかげを頂いて成就致しましても、これは「今中だ」ということです。これからの信心が、当のお徳になるのだ、力になるのだと言う様な思い込みが出来てきますとね。言うならば向こうへ降りてと言う所を目指すようになる。初めの間は頂上が目指しである。それが段々、向こうに降りてからが、目指しであり焦点にである様になってくる時に、信心は愈々新らな物になってくる。
 おかげを受けた。よくこれはもう本当にそのある事実ですけれども、これ教会に限らんことですけども。立派なご普請出来たりね、もうひとつ念願が叶うとね。途端に体が弱くなっていく。そう立派な家が出来て全部揃わんなりに、お国替えをされるという教会が多いですね。まだそれが最近ここ10年あまりのことから言うても。何軒もそういう教会があります。教会先生がもうほんとに、あっという間にころっと亡くなってしまう。あれだけ立派なご普請が出来たのに。
 そこに「やれやれ安心」、これからこのお広前が愈々助かる場として、これからが大事だというのではなくて、もう自分の一生の念願であった、そのお広前が建立された。成就したというので、やれやれが出るからじゃないでしょうかね。私ははぁここのお広前が出来る年に、そんなことを言う方がありました。もう本当に、けれど私はいっつも成就したと思わなかったとこは、私の実感です。はぁ頭がまぁだ久大線の所まで広がっていくなら広がっていけれる。
 その時分には家に、植木がなんかちょっとしたなんか出来てきますね。まあ自分な全然耳納山の山麓まで、ずっと何にもなかったです。だからまぁだ、まあだこれは序の口としか自分で思うておりませんですから、「こんなのが出来た」、本当にやれやれということは全然思わなかったです。だからおかげを頂いて私は、おかげでころっと死なんで済んだと思うんです。
 まあそれにはいろいろな無理が祟ったり、無理があったり、まあそのことで「やれやれ安心」と言った様な事で、まあおかげを頂き続けることが出来なかったという例は、いくらもあります。だから今日の神様は、そこんところを教えておられるのでしょうね。やれやれ頂いた。確かに成就したけれど成就とする次がだめだったというのでは、いけんでしょが。それを頂き続けることのために。
 しかも無尽蔵限りないおかげにつながって行く事のためにです。私共の心の中が愈々憧念心を燃やすと言う所から、言うなら「今中」の精神というか「これからが本当のおかげだ」という頂き方が身に付いて参りますと、そこには神様がおかげ下さるんだな。言うならば目覚ましひとつでも、成程神様が起して下さるんだなという実感が強うなってまいります。そこから合楽が愈々祈ってくるのですから。
 「はぁこれが一生続けるなら、ならこれは大変なことだな」というのではなくてね。なら私がまあ五体の続く限リ、もう70になったならいっちょ隠居しようちゅう思いも、もうさらさらないのです。もう手足が動く限り、お使い回しを頂きたいという念願に燃えております。ね。それが言うならば、合楽のごひれいに、愈々繋がって行き81節いわゆるまあ広がった。
 それにまたプラスする所の信心がいつも、言うなら出来ていっておる所にです。これからの合楽のごひれいも又あると私は信じます。お互いの信心の上にもね「私の修行はこれからだ」と修行をひとつ成就して、言うならばおかげの、おかげの願いが成就したと言うってもです。是はこれから本当のおかげを頂かせて頂くおかげは、明日から始まるんだと言った様な頂き方が出来る様になったら、愈々信心が有難いものになるでしょうね。
   どうぞ。